運転手

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 葬儀に参列。
 僧侶の読経から始まって弔辞、弔電の読み上げ、参列者の焼香と続き、約二時間で式が終了。
 出棺前、参列者が棺の周囲に集まってめいめい花を手向ける。
「ありがとう」
「さようなら」
「また会おうね」
 棺の中が真っ白いユリやランの花、菊、オンシジウム、極楽鳥花などでどんどん埋まっていく。花に囲まれて眠る故人の顔にもはや煩悩はない、ただやすらかに横たわっている。

 出棺。一同、マイクロバスに乗り込む。
 ほわんとクラクションを鳴らして寺を出発、故人の家のそばをゆっくり通り過ぎ、海沿いの道をしばらく走る。
 ちょうど8月のお盆どきで空は青く澄んでいるものの、前日にひどい雨が降って土砂が海に流れ込み、本来はブルーのはずの水が部分的にコーヒー色に染まっている。遠目に見ると、ものすごく大きな陰陽の太極図を描いているようにも見える。
 すごいねえ、海があんなふうになっているのわたし初めて見た、それにしても今日は暑いね、こんなに暑くなったことなんか今までないよねえ、あっよしおちゃんおなかすいたの、あっちに何かお菓子あると思うよなどと会話が飛び交うなか、バスは海辺を離れてゆっくり丘の上の火葬場に向かう。

 火葬場では小柄な職員がバスの到着を待っていた。初老の彼はタクシーの運転手がかぶるような白い制帽をかぶり、礼服の上に白衣をまとい、両手に白手袋をはめている。
 あの人はね、ずーっと昔からここにいるベテランなんだよ。
 そう聞かされてその職員を見ると、微笑みと憂いを同居させたような、柔らかさと剛毅さを兼ね備えたような、観音さまと不動明王を足して二で割ったような、何とも言えない不思議な顔つきをしている。
 棺が台車に乗せられ、そのままするすると炉内にスライドして収まり、扉が静かに閉じられる。
 扉の前で職員が脱帽して合掌。
 その瞬間、あ、この人は故人をあの世へ運ぶ運転手なのだと気がついた。
「お世話になります」と素直に乗り込む客ばかりとは限らない、「もう少しあれをやってから」とだだをこねる客、「あっちへ行くのはまだ早い」といやがる客、「絶対無理!」とかたくなに抵抗する客などいろいろいると思うが、いいんだよ仕方ないんだ、みんないつかはこうなるのさ、それが決まりなんだよとおだやかにときにきびしく諭しながら目的地へ連れて行くのがおそらく彼の仕事なのだろう。

 点火して焼き上がるまで2時間あまり。配られた弁当をつつき、茶を飲み、じっと座ってスマホをもてあそぶのにも飽きたので、待合室を出て広大な公園墓地へ散歩に行く。
 ・・・・・・かゆい。
 ヤブ蚊に食われた肌をぼりぼり掻きむしりながら、南中している太陽の下を汗だくで歩く。あまりにも暑すぎるので何も考えられない、単調に並ぶ灰色の墓石群をぼんやり眺めながらただ歩くのみ。
 彼方にそびえる緑の山の頂上を見やると白い巨大風車が建ち並び、くるくる静かに回っている。
 風が吹けば回るし、風がやめば止まる。仕組みはシンプル、ただそれだけ。
 のどが渇いたので控え室に戻り、生ぬるい茶を飲んでぐんにゃりしていると、みなが立ち上がり始めたので自分も立ち上がる。焼き上がったのだ。
 台車の上にはほかほかの白い骨。
 箸を渡され、骨を拾う。力を入れると粉々に砕けるのでそっとつまみ、骨壺に入れる。そういえばその昔「骨まで愛して」という歌があった、あれはすごい歌だったんだなあと思う。
 白い制帽の運転手はのど仏を拾い、手際よく骨壺に収めている。
 収まるべきところにすべてが収まり、骨上げ終了。
 お疲れさまでした、では戻りましょうかとみなでバスに乗り込む。
 日が少し西のほうに傾いても、相変わらず暑い。セミがみんみん大合唱するなか、ブルルンとエンジンがかかる。そうだ、あの運転手はどうしただろうと振り向くと火葬場にはもう誰の姿もなく、何ごともなかったかのように白々としている。
 バスが静かに坂道を下り始める。うたたねから揺り起こされるような中途半端な気分になる。海はやっぱりコーヒー色に濁ったままだ。

老猫神(ろうねこしん)

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 春のお彼岸は温泉にでも浸かりに行くかと伊豆旅行。
 午前中に車で出発して途中道の駅でカニのスパゲティ食べてロールケーキ食べてカフェオレ飲んで海に面した崖上の宿にすんなり到着、見渡す限り海・海・海の客室に案内されてぽかーんとしていると20代前半のかわいい仲居さんが「あのうお夕食は六時でよろしいですか」と聞いてくる。満腹だったので「七時で」とお願いする。

 腹ごなしに散歩でもと旅館を出て急な坂道を下り、海に向かう。
 蛇行する細い坂道をうねうね歩いて行くと、そこかしこに猫が一匹、また一匹。あちこちに猫がいる。熱川温泉猫まつりである。いちご摘みならぬ猫摘みじゃあっとそばに近寄るとみな蜘蛛の子を散らすように逃げていく。誰か友達になってくれえと駆け寄るも全員にぷいとそっぽを向かれて途方に暮れる転校生のような気持ちになりながら、そのまま歩き続ける。

 熱川温泉はその昔、傷ついたサルがお湯に浸かって傷を癒やすのを見た太田道灌(=江戸城を築いた室町時代の武将)が開湯したと伝えられる由緒ある温泉である。泉質はなめるとほんのりしょっぱい無臭の塩化物泉で、創傷、皮膚病、筋肉痛、リウマチ、冷え性などに効果があるとされる。
 海のそばにはかまえのいい立派な旅館がずらり建ち並び、源泉を汲み上げる櫓からは湯煙がもうもうと噴き上がっている。
 しかし、なかには廃墟と化した物件もある。
 うわあまだ真新しくて立派なのになぜそこ廃墟、つぶれた理由は何なのかと一生懸命建物を眺めるがさっぱりわからない。仲居が全員クセ者だったのか、料理長の味付けが奇妙だったのか、あるいはオーナーが突然俗世を捨てて仙郷に入ったのか。
 順調にまわっていれば今ごろガラスを張り巡らせたロビーの向こうにはたくさんの観光客がひしめき、その間を仲居が忙しく駆け回り、展望露天風呂では子どもや大人のにぎやかな声がさざめいていたのではないかと想像する。
 誰もいない大旅館は食べるものがなくてドカッと倒れ、そのまま息絶えたティラノザウルスのようだ。
 
 浜辺に到着。2001年宇宙の旅に出てくるディスカバリー号にも似た大島を彼方に見やり、砂浜にしゃがんで打ち寄せる波に両手を浸して人差し指をぺろっとなめると塩辛い。
 海水はなぜこんなにもしょっぱいの、あっそうかこの世に生じたケガレを祓い清める役割があるからだ、大地から流れてきたケガレの毒性をその強い塩気でもみ消し、寄せては引いてを繰り返しながらその厄を遠い遠いどこかに流し去るのだ、海と陸の比率は海70%で陸地30%、やっぱりそれくらい広くないとこの世の厄は消化できないのか、地球とは実に巨大な自浄装置なのだなあなどとぼんやり考えながら遊歩道に上がる。
 人気のないベンチが等間隔で並んでいる。そこに大きな老猫がぽつんとうずくまっている。
 一年間雨ざらししたような色つやのないボサボサのクリーム色の被毛の猫はこちらが接近してもびくとも動かず、ただ固く目を閉じて肌寒いベンチの上で置物のように丸まっている。
 死んでいるのか、いや腹がスーハーしているので呼吸はしている、じゃ具合でも悪いのかとそっと猫の隣に座ると頭やら背中やらがところどころ傷ついてハゲている。
 満身創痍だなお前、昔は蝶よ花よとモテたのに今はひとりぽっちの廃旅館かとつぶやきながら頭や肩にくっついたゴミやホコリをはらってやるとおもむろに立ち上がり、人の太ももの上にどかっと乗って大きな身体を小さく丸めて寝の体勢に入った。
 妙に人懐こいな、しかもヘンに身体が温かいぞ 熱でもあるんじゃないのかと少し心配しながら膝上の猫を三十分ほどなで続け、猫が体勢を変えようと立ち上がった瞬間にじゃあねまたねこれから自分は風呂に入って夕飯を食べねばならないからねと後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去った。
 振り返ると猫はこちらに一瞥(べつ)もくれず大あくびをして、寒そうにぶるっと震えてからまたベンチの上で丸まった。
 また会おうぜくらい言ってくれてもいいじゃんかさっぱりしたやつだなあと思うが相手は猫である。

 温泉街に入ると古びた射的場があり、親子連れが静かに遊んでいる。反対側にはシャッターの降りた店舗、そこにライオンのようにふさふさたてがみの生えた茶色い猫がいる。たぶんペルシャと日本猫の雑種だ。
 いい毛並みだねえとそばに寄っていくとタヌキほど太いしっぽをピンと立てて甘えてくる。かわいこちゃんだねよしよしよしよしと夢中でなでまくっていると建物の奥から今度はキジトラの日本猫が登場、小さいけれどぷっくり太っているのはもしや出産間近なのか。 
 かわいいねえと声をかけるとぬにゃぬにゃとヘンな声を出して積極的に甘えてくる、ちょっと前までとは打って変わって両手に花いや両手に猫のハーレム状態、まるで複数のキーボードを操るスティービーワンダー、気分は孤独な転校生からモテモテの転校生へと百八十度反転している。

 このモテぶりはもしや、
 スティービーワンダーの名曲「迷信(=Superstition)」のリズムで二匹の猫の尻をかわるがわるたたいているうちに気づいた。
 あのベンチにいた老猫の所業ではないのか。
 三次元の世界ではぼろぼろの老猫に見えるが実はあれは猫神、一般猫の頂点に立つ特殊な神通力を持った老猫神であり、「あのアタマ天パーの人間は猫好きみたいだからそばを通ったらかまってやれ皆の衆」と配下に指令を出したのではないか。
 ふと見ると通りの向こう側でも黒猫の親子がじっとこちらの様子をうかがっている。うわあ猫集団の攻めの布陣が徐々に狭まっている、このままここにいると三百六十度を囲まれて脱出が困難になり「お夕食は七時というたじゃろうがお客さん」とかわいい仲居さんから冷たい目でたしなめられるに違いないと恐ろしくなり、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。射的場では相変わらず親子連れが静かに遊んでいる。
 崖上まで延々と続く急な上り坂を見上げ、ため息をついてから意を決して踏み出す。振り向くと魔法のように猫が消えている。ひじから下は猫の毛だらけ、熱川温泉猫まつりに参加したあかしである。

犬天国

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 イヌイヌ、ああっイヌが足りないイヌに囲まれてゴロンゴロンしたいッと発作が起こり、いても立ってもいられずぶうううんと車を走らせて着いたところが犬ランド。
 天気は快晴、梅雨なのにちっとも雨が降らないのはどうしたわけかと道中ふと思うがランドに着くなりそんな懸念は木っ端みじんに吹っ飛び、入り口でけだるそうにごろんと横たわっている本日の園長犬・パグのモモちゃんに意識をロックオン。こんにちは、こんにちはと呼びかけながら笑顔で胴体をなで回すがうるせえなあほっといてくれよと無視される。
 いいもん、ここには他にまだまだたくさん犬がいるんだもんと気を取り直し、焼きそばやフランクやソフトクリームを売る売店には目もくれず一直線にふれあい広場へ向かう。

 ふれあい広場は小型犬エリアと大型犬エリアに分かれている。まずは手慣らしにと小型犬エリアのゲートを開ける。
 いるいる、プードルやポメラニアンやチワワやミニチュアシュナウザーなどふだんなかなかさわれない愛らしいのがたくさんいる。先客のカップルや親子連れがベンチに座ってまったり膝の上のイヌをなでている。のどかな風景だ。
 我も負けじと「さあこいっ」と両手を広げて入り口付近でしゃがみ込むが数分間そのまま待っても誰も来ない、みなスタッフのお姉さんのそばで尻尾を振ったりお姉さんの足もとをくるくる走り回ったりしている。
 そうだよなあ、毎日お世話してくれるかわいいお姉さんと一見(いちげん)のよくわからないヘンな客、自分がもしイヌなら迷わずかわいいお姉さんを選ぶよなあと思い直し、イヌがたくさん集っているところへ行く。
 この時点でやっと何匹かのイヌが自分に気づき、そばに寄ってきてクンクンにおいを嗅ぎ始める。そのまましっぽを振って抱っこをせがむかと思いきやつまらなそうにスッと通り過ぎ、どこかへ行ってしまう。
 仕方ないのでベンチに座ると、ふくらはぎに何か温かいものが当たった。ん? と足もとに目をやると、ネズミによく似た痩せイヌがぶるぶる震えて自分のふくらはぎに身体を押しつけている。
 実験ネズミのごとく体毛をすべて剃り落としたような身体、四肢は骨張ってまるで干からびたサルの手みたい、モンステラの葉のように巨大に発達した黒い耳はところどころちぎれている。うわあ正直このイヌ気持ち悪い、でもぶるぶる震えててかわいそう、仕方ないなあと抱き上げて膝の上に乗っけてやる。
 すぐ隣で毛がふさふさのプードルや毛並みのいいシェルティーやモコモコの柴犬などいわゆるイヌらしいイヌたちが元気に飛び跳ねたり抱っこされているのを横目で見ながら、困ったような顔をしてぶるぶる震えるネズミイヌを膝の上でそっとなで続ける。背骨やあばらが浮いてゴツゴツだ。
 イヌの気ははかなくてかよわい、人間に愛されるため品種改良されてきた小型犬は親の言うことにただ素直に従うだけしかないけなげで頼りない嬰児(みどりご)のようだ。

「これから一時間、ふれあい広場は休憩時間に入りまーす」
 スタッフのお姉さんのかけ声で客が次々に立ち上がり、ゲートから出て行く。半眼のネズミイヌにごめんね時間だからねとあやまり、そろそろと地面に降ろして自分も外に出る。

 広い敷地の向こうに、「ドッグレンタル」の看板が立っている。
「お好きなわんちゃんとお散歩しませんか?」
 見ると大きな犬舎にイヌがいっぱい、ねえ来て早くこっち来てと一斉に吠えている。その昔ロシア貴族に愛された優雅なボルゾイやら頭の良さそうなイングリッシュセッターやら愛嬌のあるラブラドルリトリーバーなどよりどりみどり、別の仕切りにはマルチーズやらチワワやらダックスフントやら小型愛玩犬が低い柵に前足を乗せてフンフンキュンキュン甘え鳴きしている。
 ここはつまりイヌのキャバクラ、お金を払えばこの子たちをしばらくレンタルできるのだ。かわいい子、きれいな子、頭がよくて愛想のいい子から先にどんどん売れていき、愛想のない子、ぼんやりした子、人に興味のない子は散歩に出してもらえない。
 世をはかなんでいるかのようにしょんぼりうつむいているチワワを抱き上げ、君は借り手がつかないのだね今日はお客さん少ないもんねこの世界も人気商売だから大変だねと背中をさすると、おとなしく自分に身体を預けている。
 そのとき、私のショルダーバッグのひもを誰かが背後からグイッと引っ張った。
 ん? どこのわんちゃんがいたずらしてるんだい? と振り向くと誰もいない。
 あれおかしいなあ、気のせいかなあと気を取り直してチワワをなでていると、またしても誰かが背後からバッグをグイッと引っ張る。
 ぱっと振り向くとやっぱり誰もいない。イヌたちはみな犬舎に入っているので、勝手にそこら辺をフラフラ歩き回れるわけはない。
 あっこれはもしかすると、自分が死んだことに気づかないイヌが遊んでくれ散歩してくれと自分に訴えかけたのではないかと思った。気のせいかもしれないしそうでないかもしれないが別にどっちでもいい、力の強さや引っ張った高さから言ってたぶん中型犬か大型犬だろう。遊んでやりたいのは山々だが、姿形が見えないので遊びようがない。
 生きてる生きてないに関わらずたくさんのイヌとふれあえるここはまさに犬天国、いいよいいよ生きてるイヌも死んだイヌもどんとこい、一緒に遊ぼうじゃないかと少ししんみりしながら「お願いします」と受付で財布を取り出し、生きたイヌにリードをつけて散歩させている最中に蛍の光が流れ始めた。
 イヌを返してから出口に向かうと、果たして自分が最後の客であった。本日の園長犬・パグのモモちゃんがスタッフのかわいいお姉さんに抱っこされて出口の外にいる。
「お見送りしてくれるのありがとう、楽しかったからまた来るね」と頭をなでるとうるせえなあと顔を背けられた。
 車に乗り込むと全身がイヌ臭い。これでいいのだ、ああ楽しかったとバウンとアクセルを踏み、「迷子の迷子の」と歌い出すがあっこれ子猫ちゃんの歌じゃんとすぐに気づく。だが面倒なのでそのまま歌い続ける。「あなたのおうちはどこですか」のところで何かがグッとこみ上げてきたが、あえてそれを無視して一目散に家を目指した。

寺あたり

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 ある晩秋に、仕事で寺巡りをすることになった。
「あなたこういうの好きでしょう、ふふふお任せしましたよ」とクライアントから言われたので喜んで引き受けたのだが、当時は1日に48 時間働いても足りないほど超多忙、引き受けたはいいけれどさていったいどうやって取材の時間を捻出すればいいのかと頭を抱えた。
 行き先をリストアップすると20 件あまりある。これ普通にちまちま回ってたら他の仕事に支障来すじゃん、ええい2日で何とかしてやれと腹をくくって1日10 件回ることにした。いまから思えばあんたそら無謀だろうと肩を揺すりたくなる無茶ぶりだが、当時はそれが当たり前、あの頃は自分を取り巻く時間のスピードが今の10倍速だった。 

 気力さえあれば身体は何とかついてくる。早朝から暗くなるまで有名無名の寺を気合いで巡り、坊さんの話をふんふんああそうですか、で結局神さま仏さまというのはいったいどのようなものでどこにおわしますのでしょうと尋ねるが、結局どこへ行っても回答は得られない。やはり形のないものは群盲象を評すで最終的には自分の感性でとらえ自分の脳内で像を結ぶしかないのだとそのときわかった。

 勢いに任せて1日目終了、帰宅後入浴中にこっくりこっくり湯船に顔を浸しては起き浸しては起き、いかん自分は水飲み鳥かとあわてて風呂場を飛び出しそのまま布団の上にバタンと倒れて爆睡した。

 2日目早朝、眠いよつらいよと駄々こねる身体を引きずりながら布団を離れ、前日と同じように寺から寺へとさまよい歩く。
 夕刻、バツ印で真っ黒になったスケジュール表をながめながらやればできるじゃん、じゃあ次はこのお寺だねと顔を上げると周辺に何となく白いもやが立ち込めている。あれ? 今の今まですっきり晴れてたはずなんだけどと首をひねりつつ広い境内に足を踏み入れ、恐山を思わせる人気のない丘をひとめぐり。あちこちに立つお地蔵さんの顔がやけに生々しいのは気のせいか。
 ふもとに降り、真っ黒い池のふちをたどって寺を目指す。家屋を兼ねた古い寺務所(じむしょ)の引き戸をがらりと開け、「あのう失礼します」と声をかけるとしばらくしてから「はあい」と小さな声がして、玄関からまっすぐ伸びた薄暗い廊下の奥から小柄な初老の女性が出てきた。
 いわゆる腺病質というのか、とてもやせている。全身から力が抜けたような、やる気のない感じ。この人、体調があまりよくないのかなと案じつつ「先日お電話差し上げた者ですが」と訪れた旨を話すと、「住職を呼んできますので少しお待ちください」と言い置いて再び廊下の奥に引っ込んだ。
 しーん。
 玄関から見て左側には廊下が、右側には階段がある。階段の途中に広めの踊り場があり、その上部に四角いガラス窓がはまっていて、そこから西日がぼんやり射している。薄暗い踊り場に黄色い光が細長く差し込み、光の筋と筋の間をほこりが静かに浮遊している。
 ただそれだけの風景が、こわくてこわくてたまらなかった。踊り場から誰かにじっと見られているような気がしたのである。何がいるのだろうと目を凝らしても、逆光でよく見えない。しかし気配だけは強く感じられる。
 いやだなああそこ絶対に何かいる、うっかりあの階段上っちゃったらどんなこわい目に遭うんだろう、どうして家族の人は平気なのかなとドキドキしていると「お待たせしました」と住職の声がした。
 背後に視線を感じつつ、階段と反対側の廊下を住職の後について本堂へ向かう。
 寺の由来を丁寧に語ってくれる住職はとても和やかな人で、なぜそういう人がそんなこわい家に住んでいるのか最後までわからなかった。

 2日目の取材も無事に終わり、やれやれと家に戻って資料を整理し始めたときのことである。何気なく腕をまくると、見慣れぬ赤い斑点が腕の内側一面に広がっていた。念のため反対側もまくるとまったく同じ。
 あれっ何このまだら模様、蛇女みたい、何か悪いものでも食べたっけ? とその日に食べたものを思い出してあれこれ推察するが胃も腸も別に何ともない、あ、そういえば頭痛がする、さては風邪でも引いたかねと熱を測ると38 度近くあった。しかし寒けものどの痛みもまったくない、にしてもこの気味の悪い斑点は何だと胸に手を当てて考えるうち、これは食あたりならぬ寺あたりであると気がついた。無防備に2日間で20カ所も回ったので、おみやげを持たされたのだと。
 いったいどこの寺でもらってきたのか、そういえばあの寺は薄暗くてじめっとしてヤバかった、いやあの寺も気味が悪かったぞ、あの寺では変な木に触っちゃったしなあなどと煩悶するが、結局原因は特定できなかった。
 ああどうしようこれどこから見ても奇病じゃん、自分はこのままやがて蛇かカエルに変態するのかと本気で不安になった。
 あっそういえば! とあわててカバンをひっくり返す。
 あった。仏さまの御影シート。
 親指の爪くらいの仏さまがずらりと印刷された切手シートのような紙を手に取り、あわてて1個切り離してコップ1杯の水でゴクンと飲み干した。ついでに「山伏も愛用!」と銘打たれた真っ黒い丸薬も取り出し、「胃もたれに」と書いてあったが寺あたりにも効くだろうと勝手に思い込んで数粒飲み込んだ。御影シートも丸薬も取材先で興味本位に買い求めたものだが、まさか本当に出番が来るとは思わなかった。
 翌朝、おそるおそる腕を見ると斑点がきれいに消えていた。
 ホッ。
 というわけで私は未だに人間をやっている。

 あのね、「パワースポット」と称されるところにむやみやたらに行かないほうがいいですよ、巣窟になってる可能性ありますから。昔の人はいいこと言いました、「仏ほっとけ、神かまうな」ってね。

2011.10.24

墓地に建つ家

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 ある朝起きると、窓の外からトンテンカンテンと建築音がする。どうも、どこかで家を建てているらしい。見ると、とある土地で新築工事を行っている。基礎工事が済み、木材が組み立てられているので、じきに棟上げというところだろう。
 ああおめでたい、新年早々家を新築するなんて、施主は今ごろさぞや希望に燃えていることだろうと想像したが、次の瞬間、あっと思った。
 その家は墓場に囲まれるように建っているのである。「墓場の敷地内に家を建てている」と言っても過言ではないくらい、間近も間近もいいところなのである。なにせ敷地を隔てる薄っぺらい塀のすぐ向こうに、地続きの墓地が広がっているのだから。
 しかし、大工たちは青空の下で意気揚々とトンテンカンテンやっている。ま、自分が住むわけじゃないからね。

 一般的には、墓地は住まいの周辺環境としては悪くないと言われている。高い建物がないので日当たり、風通しは申し分ないし、騒音の心配もない。ただし春と秋のお彼岸は人がざわざわ出入りしたり、線香の香りが家の中に漂ってくるといった欠点はある。しかしそれを差し引いても、閑静な環境を好む人にはうってつけの環境といえる。
 ただしそれは「道を一本はさんだ程度の距離」がある場合のことであって、家の窓からはたきを伸ばせば墓石に届くくらい間近だと、また話が違ってくるのではないか。

 太陽が水平線の下に沈んだ後、奴らは目を覚ます。どこかでオオカミが遠吠えを上げたのをきっかけに土の中からしわがれた手が次々に伸びて・・・・・・スリ、ラーッ! それマイケルじゃん、そうじゃなくて。
「お墓の下に私はいません」という歌があった。実際、墓の下に埋まっているのは幽霊でなくカルシウムである。だから恐れる必要などまったくありませんよと人は言う。「人は死んだら無になる。だから幽霊など存在しない」と言う人もいる。
 たぶんあの家にこれから住もうとする人は、霊だの魂だのをあまり気にしないたぐいの人ではないかと思う。それはそれでもちろんいいと思う。

 しかし「あーっ、今日もいい天気ねえ」と布団や洗濯物を干す目の前に墓、「今日はがんばるぞ!」とご飯をほおばる視線の先に墓、「あの人に思い切ってメール送ってみようかなあ」と座るトイレの真裏が墓、「いやあ極楽だなあ」と湯船に顔を埋める窓のすぐ向こうに墓、「今日は家族みんなでミッキーに会えて楽しかったねえ」とウキウキ帰宅する途中にも墓。見渡す限り墓、墓、墓。陰の気に満ちた墓に囲まれて、気持ち、萎えないか。「ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲー」と鼻歌が出るうちはまだいいけども。
 元気なときならいいけれど、体調が悪いときや精神的な落ち込みが続いたとき、「墓に囲まれて暮らしているからこうなったのでは」とつい思い込みたくなるのが人間だ。
 そうなったが最後、「くしゃみが出たのは墓のせい」「夫の給料が少ないのは墓のたたり」「ダイエットが成功しないのは墓の呪い」など、何でも墓に結びつけて考えてしまう恐れがある。そうなると、住み続けるのが辛くなる。げに恐ろしきは、幽霊より「思い込み」だ。

 思い込みは生きている人間のみならず、死んだ人間にもあるだろう。
「死んだら墓場へ行くもの」と思い込んでいる人はたくさんいる。そういう人が亡くなったとき、そのまま行くところへスーッと行ければいいけれど、迷ってしまった場合はどうなるか。墓場を目指し、そこでうろうろする可能性が高くなる。
「あれ、やっぱりここじゃないような気が・・・・・・。あっ、あそこに光がある!」と走った先が、墓地に隣接する家の玄関や寝室だったらどうなるか。・・・・・・パキパキ家鳴りがしたり、電化製品がしょっちゅう壊れたり、あるいは敏感な住人なら、暗闇にまぎれる誰かの気配を感じるようになるだろう。

 お彼岸ともなれば、「イカ之助おじさんに好物のぼた餅持って行こう」と墓参りに行く人が増えると同時に、「サバ子が自分の墓を訪ねてくるからちょっくら顔出すか」と墓帰りする人も増える。墓地はあの世とこの世を結ぶランドマークだからである。
「ランドマークの近くにちょうどいい集会所できたじゃん、あそこでお茶しない?」「うんいいね、あそこ日当たりよくって居心地いいもんね」「じゃ、先月こっちに来たばかりのハモ美も誘おうか!」なんて勝手にどやどや入ってきて自宅の庭やリビングを利用された日にゃ、生きてる人間はたまらない。
 だからもしそこに暮らし続けようと思うなら、先住者の顔を立てて、多少のことには目をつぶって暮らすしかない。「ま、そういうこともあるだろう」と居直って共存するのである。
 ・・・・・・最後の切り札は引っ越しだ。そこを売るなり貸すなりして、別の家に移り住めばいい。問題は、「墓に囲まれた家に住みたい」と希望する人がはたしてすんなり見つかるかどうかである。

2013.01.13

ねずみ男

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 元日に氏神さまを参拝。
 年々長くなる行列の最後尾に並び、順番を待つ。
 急な階段を一段ずつ上った先には、茅の輪(ちのわ)がある。茅の輪とは、茅(かや)草で編んだ大きな輪っかのことである。参拝者はこの輪を八の字を描くように3回くぐって回り、1年のケガレを茅の輪に落としてから神前に向かう。
 1時間後、やっと茅の輪がくぐれるところまで来てふと振り返ると、自分の真後ろにいつのまにか背の低い男が立っている。
 あれっ後ろはたしかオレンジ色のダウンを着た長身の男だったはず、くたびれたねずみ色の上着に黒いズボンを履いていろいろなものが入った紙袋をぶら下げた年齢不詳のこの男はさっきまで絶対に存在していなかった、いったいいついかなる方法でここに入り込んできたのだろうと頭をひねるがわからない。無彩色の服を身にまとった男は背中を丸めたままじっと立っている。
 なんでこんなねずみ男みたいなのが自分の後ろにいるの、いったいどこから湧いてきたの、にしてもなぜオレンジ色の男は割り込みされても知らんぷりしているの、正月早々ことを荒立てるのもなにだからスルーしようと決めたのかといろいろ考えながら茅の輪をぐるぐる回る。
 神前で感謝と誓いを述べてからさあ御札買っておみくじ引いたろかと授与所へ向かうと、ねずみ男がぶつぶつ言いながら自分のそばをかすめ通り、行列の脇をスーッと歩いて行った。誰もその男に視線を移さない。
 けっこう周囲から浮いているのになぜ誰も見ないのかな不思議だなあと周囲を見渡して視線を戻すと、ねずみ男は煙のように消えていた。 
 あれは果たしてリアルだったのだろうかそれとも自分だけに見えていたのだろうかと首をかしげながら甘酒をもらい、ガーッと飲み干してからおみくじを開く。

 一番 大吉 
 朝日かげ たださす庭の松が枝(まつがえ)に 千代よぶ鶴のこえののどけさ
「天のお助けを受けてもろもろの災いが去り、大きな喜びがあるでしょう」

 ひやっほうと飛び跳ねながら、あのねずみ男はもしかすると福の神だったのかもしれないぞと思う。いやそんなわけはない、福の神が無彩色の服を着るはずないし、汚れた紙袋なんか持つわけないし、ぶつぶつ独り言なんかも言わないだろうと否定するがそういう定番はいったい誰が決めたのだという声が聞こえてきて混乱する。
 お盆やお彼岸や年末年始など節目どきにはこちらとあちらの境界線がゆるんで変なものが道ばたにごろごろ登場するのは知っていたが、まさか初詣にも来るとは知らなかった。まあいいやねずみ男、明けましておめでとう。

 みなさんも明けましておめでとうございます。
 2013年も明るく楽しく元気にいきましょう。いいことがたくさんありますように。

2013.01.04

見世物小屋

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「親の因果が子に報い、かわいそうなはこの子でござい」の口上に釣られて東京新宿は花園神社の見世物小屋へ。毎年酉の市に小屋が建つのは知っていたが、入るのは初めてだ。
 天井桟敷を彷彿させるアングラ演劇に大道芸とサーカスとお笑いをプラスしてお化け屋敷で割ったような淫靡な雰囲気に満ち満ちた小屋の中はまさに異界、声のかすれたおばちゃんの司会進行でさまざまな出し物が次々に繰り広げられていく。
 年季の入ったお姉さんの火炎放射や大蛇さんいらっしゃいやチェーンの鼻入れ口出しと「あなたの知らない世界」がてんこ盛り、若くて美しくてわけありのお嬢さんの蛇の躍り食いに至っては完全にデビッド・リンチの世界、紫色のカルトな世界に圧倒されつつほてった頭で小屋を後にした。
 その晩布団に入ってから見世物小屋のオールスターがのそのそと境界線を這い上がって登場、頭の周囲をぐるぐるまわりながら一晩中ラインダンスを踊ってくださりああもう勘弁してぇ〜になったことは言うまでもない。

2012.12.27

 

カリスマ

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 暮れも押し迫った12月のある夜のことだ。
 ああ今年も猛烈に早かった、年をとると時間の経過が早くなるのはなぜだろうと思いながら午後9時過ぎに市ヶ谷方面から靖国通りを車で走っていると、武道館から出てきた人々が九段下に向かって大行列をなしてぞろぞろ歩いている。
 これはかなり大規模なイベントが引けたに違いない、年末チャリティイベントか何かだろうかと信号待ちのときにふと見ると、黒い革ジャンや深紅のスーツに身を固めた男たちがところどころ混じっている。そして全員が何かに憑かれたように顔を上気させ、リズミカルに歩いている。
 芸人を集めたお笑いイベントでもあったのかなと一瞬思うが、そういうくだけた雰囲気ではない。みんな背筋をまっすぐに伸ばし、威風堂々と歩いている。
 純白のスーツの男が肩をいからせて車のわきを通り過ぎる。肩に細長いバスタオルを引っかけている。
 E.YAZAWA。
 ・・・・・・そうか、永ちゃんのコンサートだったのか。
 信号が青になる。車をゆっくり走らせる。
 長蛇の列をなして歩く人々の頭上から青白い光がまっすぐ立ち上り、それが空中で合体して美しいドレープのある緞帳(どんちょう)のようなオーロラを形成しているのが見えた。

 自分は矢沢永吉というアーティストに特に傾倒しているわけではないし、好きとかきらいとかいった思い入れもまったくない。しかしその光景を見て、これは武道館の中で実にものすごいことが起こっていたのではないかと想像した。この日の動員数がたとえば1万人とするならば、彼はたった1人で会場にいた観客1万人のハートをつかみ、「元気出そうぜ!」「自信持とうぜ!」「夢をあきらめるな!」と勇気づけ、実際に力を奮い立たせたに違いない。そうでなければ、あのように美しく力強いオーロラが空一面に広がるわけがない。
 おりしもその日は総選挙前で、選挙公示の掲示板にはたくさんの候補者のポスターが貼り出され、「明るく豊かな未来をつくります」「誰もが幸せになれる社会にします」「希望のある未来をお約束します」といった言葉が空っ風(からっかぜ)にさらされていた。しかしそういう上っ面(つら)の言葉が人の心を打つことはほとんどない。
 そんなものより今みんなが必要としているのは、裏も表もなくまっすぐ心に訴えかけ、萎えた心を揺さぶって生きる力を与えてくれるものだ。

 その夜、作り笑顔や策略や絵空事の約束が横行する世界の片隅で、永ちゃんのコンサートが開催された。それはともすれば夢や希望が黒く塗りつぶされてしまいがちな今の世の中において、実に貴重なイベントだったに違いない。
 嘘がつけない「音楽」という表現を通じて、「ノープロブレム、だいじょうぶ。俺たちはまだまだいける!」と周囲に明るい光を分け与えるこの人こそ、「カリスマ」の名にふさわしいのではないかと思う。

2012.12.18

神だのみ

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 方位のパワーを取りに、約1週間の旅に出た。大吉方位への移動なので気分はハイ、苦手な飛行機も余裕で乗り倒した。私の趣味は開運だ。
 吉方位旅行のいいところは、旅の最中や事後にたとえゲッと思うようなことが起こっても、「これは開運に必要不可欠な毒出しである」「この出来事は過去の悪行を清算するため必然的に生じている」「これを越えれば幸せをつかむことができる」などと気持ちをポジティブに切り替えられるところであろう。ただ単に旅行してイヤな目に遭ってしょんぼりして帰ってくるより、よほど生産的なのである。吉方位旅行が古来すたれない理由のひとつは、そこにもあると思う。 
 ラッキーなことに初日はゲッなことも特に起こらず「ああ楽しい、ああうれしい」だらけで過ぎ、やがて夜が来た。上げ膳据え膳のホテルのベッドで横になり、800キロ近い移動の疲れもあってすぐに眠りに落ちた。

 ・・・・・・窓際の白いカーテンに、誰かがみの虫のようにくるまっている。やがて、ぺろんと布をめくって姿を現した。死んだ知り合いだ。
 この知り合いは夢を通して棺桶の中に一緒に入ろうと誘ってきたり、黄泉(よみ)の国に続く地中の狭いトンネルにむりやりご招待してくれようとするのでちっともありがたくない。たぶん他に頼る人がいないのだろう。
 またお前かしつこいな、人を巻き込もうとするのはムリだっちゅうのがまだわからんか。
 ・・・・・・やっぱりだめかなあ。
 私が拒否すると、そいつはぼそっとつぶやいた。
 生者と死者では存在する次元がまったく違うのは当然の理、それでも境界を飛び越えてコンタクトしてくるのは、よほど依存心が強いかよほど辛いのだろう。

 正規のステップを無視して無理やり肉体を脱ぎ捨てると、時間の流れから外れて「しばらく」さまようことになる。年を取るのはイヤだとみんな思うが時間に支配されるからこそ救いがあるのだ。神様の時間概念は悠久で人間の何倍も長いから、この「しばらく」は永遠に近い。苦しい瞬間のまま永遠を過ごすのはまさに地獄のような苦しみではないかと想像する。
 いつ生まれ落ちるか自分で決められないように、人間はいつ死ぬかを安易な理由で自分勝手に決めてはいけないのだ。「そんなの個人の自由じゃん」と不自然なことをすると、ベルトコンベアーからはずされてしばらく放って置かれることになる。

 いやな気分で目が覚めて、窓の外を見ると暗闇だ。時計を見ると3時過ぎ。まだ早い、寝ようと思って目を閉じた。

 私はバスに乗っている。バスの中はがらがらだ。
 両肩が妙にずしっと重い。
 あれ、何でこんなに肩が重いのと手で左肩を触ってみると、半分ひからびた誰かの手が乗っている。右肩も同じである。
 思わず後ろを振り向くと、丸い黒眼鏡をかけたやせた爺さんが両腕を伸ばし、私の両肩に両手を乗せている。
 うわっ。
 思わず手で払いのけ、立ち上がった。

 そこで目が覚めた。すでに明るい。時計を見ると6時を回っている。
 タモリ、もしくは冷血のトカゲにも似たあの無表情な黒眼鏡の爺さんはいったい誰だと考えを巡らせるがまったく心当たりがない。
 勝手に人の肩に手を乗せやがってずうずうしいと無性に腹が立ったが、すでに見終わってしまった夢なのでどうにもならない。
 飛行機の中で何か憑けてきたか、ホテルの部屋にもともといるものなのか、あるいは死んだ知り合いに関わる何かなのか。いずれにしてもたちが悪い、あの爺さんの黒眼鏡は正体をカムフラージュするためのもの、たぶん本体はものすごくケガレたものに違いないと想像する。
 旅先ではどうしても無防備にならざるを得ない、だから初めての部屋ではいろいろなものが襲ってくる確率がけっこう高い。

 萎えた気持ちを抱えたまま、朝いちの露天風呂に行く。
 誰もいない風呂の中で頭に白いタオルを乗せて「旅行の初日に悪夢2連発」の意味を考える。
 これは毒出しなのか? いや違う、隙を狙われたのだ。
 目の前は本州最西端のターコイズブルーの海、潮騒の音を聞きながら涼しい海風にただ身をさらすのみ。
 何にもなくて、いいところだなあ。
 あっそうか神社だ、どこか力のありそうな神社へ行って守ってもらえばいいのだとピンと来て、その日の移動途中に神社参拝の予定を組んだ。その神社の御祭神はストイックな武士として知られる。
 うん、あそこへ行こう。

 日の落ちる前に、神社に到着。
 凛と引き締まった空気が境内に漂い、正殿に向かうと自然に背筋が伸びた。一点の曇りもなくすがすがしい雰囲気、さすが後世に誉れ高い武士を祀った神社だけあると感心。
 二礼二拍手一礼してから、お守りを入手。おみくじを引くと大吉。
「争いごと 勝つ」
 やったあ。

 その夜、枕の下にお守りを忍ばせて横になる。またあいつが出てきたらもう本気で怒るぞ、しかし本気で怒ってもどうにもならなかったら面倒だなあといろいろなことを考えながらうとうとしていると、いきなり「この馬鹿者がぁぁぁぁっ!!!!」と大声で怒鳴る声が頭に響いた。
 えっバカ? 自分やっぱりバカですか? と一瞬思うがすぐにあっそれ違う、誰かものすごく大きくて強い人が誰かを恫喝(どうかつ)したのだと気づく。
 たぶん参拝した神様、もしくはその方の門下生が「馬鹿者」を追い払ってくれたのだ。やっぱりあのお方、頼もしいなあ。

 翌日以降の旅はほとんど何の問題もなく快適に過ぎ、無事に帰宅して今ここでこうしてブログ記事を書いている。道中いろいろなことを見たり聞いたり考えさせられたりしたが、おおむね楽しかった。
 現在、身体の中に方位のパワーがたっぷんたっぷんに詰まっているのを感じている。食べ過ぎか。いやそうじゃなくて。
 このパワーが具体的にどう具象化していくのか、これから興味深く見守っていこうと思っている。

2012.10.17

お盆の猫

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 死んだ猫が2匹、家に帰ってきた。
 まずい、猫用の食器がほこりかぶってるじゃんと私はあせって食器を洗い、猫缶のストックがないことを思い出す。
 仕方ないコンビニで買ってくるか、しかしグルメな奴らの舌に合う缶詰が果たしてあるのか。
 ぼんやり考えながらとりあえず水をボウルに注ぎ入れていると、猫は高いところで毛づくろいをしている。・・・・・・お盆。そうか、今日はお盆の初日だったなと気づいた。
 いけね、トイレ! トイレを取り替えなくては!
 行って見ると、猫のトイレは2つとも使用済みで汚れている。
 あーあもう自分は猫のために何もしてないじゃん、ダメな飼い主だなあとあわててシートを取り替えようとする。
 そこで目が覚めた。

 そう今日は8月13日、お盆の初日である。自分はすっかり忘れていたが猫たちは毎年きちんと覚えていてきっちりやってきてくれる。意外に几帳面なのだ。

 夕方、スーパーで猫缶を2つ使ってきて西の窓辺に備えた。たっぷり水を張った丼も置く。花も飾る。暑さにぐったりしながら般若心経を唱える。首筋から背中にかけてあせもができていて痛痒い。
 夏もあと3週間か、高速回転で過ぎていくのだなあと思いながらふと見ると、猫は2匹そろっておとなしく自分の目の前に座り、お経をじっと聞いている。

 2012.08.13