牛丼

rimg0009.jpg_4
 知人に連れられて浅草へ。
 どじょうを堪能したのち老舗のバーへ行く。裏通りをうねうね歩き、迷路のような細い路地に入った記憶があるが、詳細はまったく覚えていない。ただカウンターの後ろにずらりと並んだウイスキーの瓶がまぶしいほどピカピカに光り輝いていたことだけは覚えている。
「あんたたちどぜう鍋食べてきたでしょうわかるわよそれにしても寒いわねえあたしババシャツ2枚着てるの米はやっぱりコシヒカリだよ西郷隆盛のあそこはとてつもなく大きかったらしいねえいや見たわけじゃないけどさ」
 70歳くらいのベテランママの途切れなく続くマシンガントークを一身に浴びて店を出ると夜12時すぎ。小腹がすいたので牛丼をテイクアウトしようと思い立ち、数年ぶりに牛丼屋に入った。
  
 入り口に四角い食券販売機があり、若くて真っ黒いカップルがああでもないこうでもないと迷っている。数分後にようやく彼らが去って番が回ってきたので牛丼の普通サイズ券を2つ(翌朝のぶんも)買い、カウンター席に座った。
 店内はほぼ満員、蛍光灯のオレンジ色の光がぼんやり灯っている。
「あのう」
「ちょっとお待ちくださいねー、今行きます」
 店員はものすごく忙しそうだ。牛丼を盛りつけたり調理したり空の食器を片付けたりテーブル拭いたりおかわりをよそったりと片時も休まず動き回っている。
 私の左隣に座っているやせたメガネの青年はすでに食べ終えたようで、空の丼に箸を乗せてじっとしている。あまりにも動かないのでそっと盗み見ると、背筋をピンと伸ばして丸めた右手を口に当てている。楊枝で歯の掃除でもしているのかと思ったがどうもそうではないらしい。ただ単に丸めた右手を口に当てているだけだ。
 あれどうしてこの人動かないの瞑想でもしているのと考えを巡らせていると目の前に30代半ばの男性店員が来たので「牛丼2つ、テイクアウトで」とお願いする。
 極太の眉が左右1本につながった彼は「少々お待ちください」と言い残してすぐ向こうへ去った。隣の青年は相変わらず微動だにしない。
 50代後半と見られる半眼のちょっとくたびれた女性店員がいつの間にか目の前に立って「お箸はどうします?」と聞いてきたので「あ、お願いします」と答えると「あっちにありますから取ってきてくださいね」と言う。指さしたほうを見ると店の奥である。
 牛丼を食べたり味噌汁をすすっている人たちの背中を縫うようにして割り箸を取りに行く。
 カウンターに戻ってしばらく待つ。隣の青年はまだ右手を口に当てたままだ。だいじょうぶかもしかするとやばいのではないかこの人と思っていると先ほどの女性店員がまたやってきて「お箸はどうします?」と同じことを聞いてくる。あ、今さっき取ってきましたからとテーブルの上に置いた箸を指さすと、「取ってきましたからもういいって」と一本眉の男性店員に告げる。
 隣の青年が静かに立ち上がり、そのまま音もなく店の外へ消えた。
 呪いでもかけられていたのか、しばりが解けてよかったなと人ごとながらホッとしていると、右隣にいた中年の男性客が運ばれてきた膳を前にして「小鉢がないんだけど」と独り言のように言う。
「小鉢はもう出ないんですよ、昔はあったんですけどね」と女性店員が答え、しばらく2人でぼそぼそ話している。耳を澄ますがまったく聞き取れない。
「紅しょうがはつけますか?」
 一本眉が遠い調理場から唐突に問いを投げかけてきたので「お願いします」と大声で答える。
「七味はどうしますか?」と続けて聞くので「それもお願いします」と大声で言う。
 しばらくすると一本眉がカウンターから出てきて大きな図体を小さく丸め、客の背中を縫いながら私のところまでわざわざ牛丼の袋を持ってきてくれた。カウンターの中から渡してくれれば早いしラクなのになあと思いつつ礼を言って店を出る。

 冬土用の深夜は寒い。冷たい風に逆らうように家路を急いだ。
 家に戻って袋から牛丼を取り出す。
「あっ」と声が出る。
 紅しょうが8袋、七味7袋。ちなみに紅しょうが1袋あたりの分量はかなりあり、1袋で牛丼1個を十分まかなえる。紅しょうが好きでも2袋入れればちょっと多い、4袋入れたら牛丼ではなく紅しょうが丼になるだろう。いやそんなことを言ってはばちが当たる、紅しょうがも七味も自分的には大好きだからよかったじゃないかと紅しょうが1袋と七味1袋を乗せて牛丼をいただく。
 久しぶりに食べたそれはものすごくおいしかった。
 消化のために小1時間ほどつまらないテレビを見てから床につく。牛丼屋の光景がぐるぐる頭の中を駆け巡る。そういえばあの店の照明はオレンジ色だった、なぜ満席なのにしーんとしていたのだろう、店員も客も妙に浮世離れしててなんだかロッキーホラーショウみたいだったなどとつらつら考えるうち眠ってしまった。 

 翌朝、冷蔵庫を開けてみた。がらんとした庫内に牛丼、紅しょうが7袋、七味6袋がころがっている。やはりきのうの店にいた彼らは宇宙人であり、彼らはカムフラージュのために牛丼屋の店員と客を装って作戦会議を開いていたのではないか、そしてこれは突然の訪問客に対するささやかなプレゼントだったのではないか、なんだか妙にやさしい宇宙人だったなあと冷蔵庫の前で呆然とたたずんだ。

2010.12.31