カピバラ

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 車を走らせて郊外の動物園へ。そこは比較的自由度の高い動物園で、カピバラが放牧されているので気に入っている。やはり敷地が広いと園の器も広くなるのか。
 晴れたり曇ったり忙しい空の下、車は快調に目的地へひた走る。途中で真っ黒い雲が出てきて降るかなと懸念するが杞憂に終わる。

 到着してすぐ空腹に気づき、まっすぐ食堂に向かって焼きそばとウーロン茶を注文する。
 親子連れ、老人連れ、恋人連れが多い。いつもの習性で焼きそばのにおいをクンクン嗅いでからひとくち食べる。前世は犬だったかもしれない。まったく期待してなかったのに意外とうまい、でも量が少ないからけっこう物足りないぞとソフトクリームも買う。あっという間に食べ尽くす。
 コーヒーも飲みたいな、でも腹がパンパンになると園内の山歩きがきついかなとあきらめ、ひと息ついてから金網に囲われた犬舎へ駆け寄った。そこで生息するイヌたちに笑顔でモーションをかけるが、あっけなく無視される。
 1匹だけ、丸まって寝ていたところをモソモソ起き上がってこちらに来ようとする秋田犬がいた。けなげな姿にとグッと来る。だがそいつはあまりにも年を取りすぎて、足が思うように動かない。金網の向こうに立っている私のそばに来るには、地面から一段高くなったフロアにジャンプしなければならない。しかしそのジャンプがどうしてもできない。飛び上がろうとすると、足が震えるのだ。
 連日の猛暑でかなり弱っているのか、目やにがすごい。目やにの奥で人なつこそうな小さな眼が困ったようにきょときょと動いている。
 いいよいいよ、お前の気持ちはようくわかった、ありがとね、無理してこっちに来るなゆっくり休んでてくれ、いいからいいからと両手を広げて秋田犬を制し、そそくさと立ち去る。
 ああやっぱり動物園ってせつないなあ、来ると哀しい気持ちになってしまうのになぜ来てしまうのだろう。

 太ったお父さんくらいものすごく大きく成長したミニブタは暗くじめじめした檻の中でひたすら寝ている、よく見ると隣の檻にイノシシがいる。イノシシは皮膚の硬いブタだ、しかし瞳孔が縮小して闘争本能があからさまになっているところがブタと違う。 
 ふたこぶラクダの檻の前に出る。1頭はぽわーんと立っており、もう1頭はぼよんと座っている。のどかである。ラクダはおっとりして風情があるので好きだ。
 売店で買った動物用のバナナとにんじんを立ったほうに与えると、はむはむ・ポリポリおいしそうに食べる。
 座っているラクダが突然ごろりと横にころがった。白目をむいて舌をべろんと出したので死んだのかとあせる。と思ったらこぶを地面になすりつけ始めた。腹にたかっていたハエが一斉にぶわんと飛び立つ。かゆいのか、4本とも足だから不自由だよなあと気の毒になるがどうしようもない。ただ黙って見ているだけである。
 ラクダはやがて起き上がり、立ち上がって私の前に顔を突き出した。口の中はよだれだらけだ。ほら食べな、のど乾いてるんだろうとバナナとにんじんを口の中に入れてやる。
 はむはむ・ポリポリしている間もラクダの大きな眼はとろんと遠くを見ている。その奥に思慮分別だとか理性だとか包容力だとかは存在しない。ただビー玉のようにつやつやと真っ黒に輝いているだけだ。哀しい眼だなあ、本能だけで生きているとこういう眼になるのだなあと思う。  

「動物ショーが始まりますのでお集まりください」
園内にアナウンスが流れるが、無視してカピバラの池へ向かう。だって好きなんだもん。
 ふれあいゲートの扉を開ける。
 しーん。お客なんか誰もいない。みんなショーを見に行っているのだ。
 緑色の池の中にカピバラが3頭いる。よく見るとウンコがあちこちにぷかぷか浮いている。水辺に住むカピバラは、池の中で排泄する習性があるのだ。
 一番大きいカピバラが池から出てきてのそのそこちらに近づいてきた。もちろんバナナとにんじんが目当てだ。
 うわあかわいい、手に水かきがついててかっぱみたい、顔デカい、鼻の下が長くてぶわぶわしてるねえ、前歯が伸びてまるで不思議の国のアリスに出てくるきちがい帽子屋みたいじゃんとうっとりしながら抱きつくように両手で剛毛をなでていると、いきなりブルブルブルッ! と身体を震わせた。うわあ水切りしやがった、ウンコのついた水滴を一身に浴びてしまったぞとちょっぴり困るがやっぱり離れられない。どうやらカピバラから強い磁力が放たれているようである。

 目を遠くにやると、地平線に添って伸びるなだらかな丘を夕陽が金色に染めている。風が冷たくて心地いい。いつの間にかスズムシが鳴いている。
 大きな金色のカメがこちらに向かってゆっくり歩いてくる。にんじんをやるが、見向きもしないでただ通過していく。
 ふれあいコーナーを奥に進むと天井の高い檻がある。サル小屋だ。見ると、床に小さな小さなサルの赤ん坊が落ちている。じっと眼を懲らすがぴくりとも動かない。もう死んでいるのだ。
 生まれたばかりの赤ん坊を落としてしまったのか。かわいそうにと思うがすでに動かないそれはただの肉塊だ、いずれ係員に発見されて跡形もなく片付けられるだろう。
 死んだ子ザルの親を探すがさっぱりわからない。みんな同じ顔をして普通にたたずんでいる。
 しばらくベンチに座って夕陽をながめる。ああここは大自然がのんびりしている、ビルも工場もネオンサインも何もないのがいいなあと心から思う。どこかで5時のサイレンが鳴っている。
 さあてそろそろ帰るかあと立ち上がると、出口のゲートの手前に先ほどの一番大きいカピバラがどっかり座ってこちらを見ている。変な威厳がある。
「楽しかった? あんた」
 えっ?
「俺たち細かいこといちいち気にしてないから」
 ええっ?
「また来たらいいじゃん」
 えええっ?
 それだけ言うとよっこいしょと重そうにのそのそ立ち上がり、他のカピバラが顔を出している緑色の池の中にちゃぽんと入り、そのままゆっくり水の中に消えていった。

2011.08.01