忌み神

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「あなたは生まれてから20歳くらいまでずっと、生きにくかったのではないですか」
 昔、占い師からそう言われたことがある。
「忌み神が憑いていたのです、・・・・・・大量の水に浸されて根腐れを起こしていませんでしたか」と。
 考えてみれば成人して家を出るまで、私には母親という名の忌み神が憑いていた。「親子」という大義名分のもとに「情」という汚水が大量に心身に注ぎ込まれ、やがて体内に収まりきらなくなった水はぽたぽた外部にあふれ出し、よどんだ沼を形成した。まったりといやらしく粘る黒い水の中で、私は息のできない鯉のようにパクパクあえいでいたのだった。
 太陽の光は沼の底まではなかなか届かず、顔を仰向けても、ぼんやりと薄明るい蜃気楼しか見えなかった。
  
 2月の寒い日、日本画家・松井冬子の個展を見に横浜美術館へ。久しぶりのみなとみらいは殺風景な野原から超高層ビルが林立する近代都市へと変貌しており、しばし方向感覚を失った。
 平日のせいか観客は少ない。人口密度が低いぶん、絵から放たれる気をストレートに受け取ることができるので都合がいい。
 薄暗い館内で最初に展示されていたのは、目の見えないボルゾイ犬の絵だ。「盲犬図」と題されたその絵には、意識を暗黒の世界に閉じ込められた犬の絶望感が静かに漂う。
 この時点で観客は不思議の国のアリスとなり、白いボルゾイ犬の後を追って深い穴の底へ落ちていくことになる。
 枯れて崩壊寸前の花や解剖標本のごとく切り開かれた身体、怨念のように細長く垂れ落ちる毛髪など、1枚1枚から濃密に立ちのぼる死の香りにかすかな快感と吐き気を覚えつつ会場を巡るうち、展覧会の副題にもなっている代表作「世界中の子と友達になれる」が現れた。最も見たかった絵だ。

 薄紫色の藤の花が一面に垂れ下がるなか、背中を丸めた少女が画面左側にたたずみ、藤の花をかき分けて左側をうかがっている。素足のつま先が血に染まっているのは、防御のすべを知らない無力さの表われか。
 画面右側には空の揺りかご。元気に泣きわめく赤ん坊を「活動的なエネルギーに満ちあふれた生命の象徴」とするならば、このゆりかごは「もぬけの殻」、つまり魂が抜け去った後のなきがらを意味する。
 だらりと垂れ落ちる藤の花は半分から下が黒い。よく見ると、スズメバチがびっしり群がっている。
 ぶうん。ぶうううん。耳元にスズメバチの羽音がまとわりつく。死体にたかるハエの羽音にも似ている。
 力のない笑みを浮かべる少女の魂は半分抜けかけている。そのまま左側へ進んだ先には藤の花のカーテンが延々続き、彼女はきっと痛みにのたうち回りながら少しずつ迫ってくる死と永遠に対峙させられるに違いない、「この先に行けば世界中の子と友達になれる」という狂った思い込みに絶望的な希望を託しながら。
 藤の花の下でたたずむ少女の姿と、かつて沼の底でもがいていた自分の姿がぴたりと合わさる。この絵の作者もまた、過去に忌み神に取り憑かれたことがあるに違いない。
 
 ひととおり鑑賞して時計を見るとはや夕方。昼食を抜いて空腹のはずなのにまったく食欲が失せていた。喫茶店に入ってとりあえずカプチーノを注文したが、死臭が身体中にまとわりついているような気がして液体を飲み込むのにひどく苦労した。絵の毒気に当たったのだと思う。
 松井冬子の美貌に多くの人が目を惹きつけられるように、彼女が生み出した絵にも見る者をとらえて離さない強い引力がある。だが見た目は美しくても、その奥から放たれるのは猛毒だ。
 かつて忌み神と抜き差しならない関係に陥り、もがき苦しんだ末に命からがら逃げ出した者(=サバイバー)は、トラウマを客観視して昇華できる創造力とテクニックがあればすぐれたアーティストになり得る。しかしその作品を鑑賞する者が同じくサバイバーであった場合、底なし沼に引きずり戻されてなかなか抜け出せなくなる危険がある。
 横浜に行ってからしばらくの間、私は暗い不思議の国をさまよい続けることになった。スティーブン・キングの「IT」に出てくる道化師姿の鬼=ペニーワイズのように忌み神はたぶん不死であり、機会があればいつでもまた一緒に楽しくダンスを踊ろうと死角からこちらを狙っているのではないかと恐れるようになった。
 しかし、やすやすと憑かれるわけにはいかない。

 迷宮から脱出するには「お笑い」が効く。漫才やお笑いコントには邪気や陰気を笑い飛ばす=祓い飛ばすパワーがあるからだ。
(古来、笑う門には福来たるというように、古今東西お笑いがすたれないのは、それが邪気をすばやく祓える強力な呪術だからではないか。漫才師やお笑い芸人は現代のシャーマンなのだ。)
 youtubeを見ながら笑っていると、スッと肩が軽くなった。愛は地球を救う、いや、お笑いはサバイバーを救う。

2012.03.05