花まつり

DSC00383
 花見をかねて川崎大師へ。
 日曜日とあって参道はにぎやか、トントコトントコとたんきり飴を切る乾いた音があたりに鳴り響いている。
 ここ下町っぽくて好きだなあと門をくぐると正面からドンドコドンドコ大太鼓を打ち鳴らす音、あっお護摩始まっちゃったよと血が騒ぎ、急いで本堂に上がった。
 鮮やかなパープルやグリーンの法衣を身につけた僧侶が一斉に読経するなか、護摩壇から金色の炎が勢いよく立ち上がる。ああっお不動さま、どうか私にまつわる災厄や煩悩をその強力な炎で一気に焼き払ってください、のうまくさあまんだーと手を合わせて祈る。
 無常に形の変わる炎を見つめ、リズミカルな太鼓の音を全身で聞くうち軽くトランス状態に入るかと思ったがそんなことは全然なく、ふと前を見ると母親におんぶされた赤子がこちらをじっと見ている。うわあかわいい頭髪がほとんどなくてお坊さんみたい、君の前世はもしかするとお坊さんだったのか、また娑婆に戻ってきて大変だのうと無言で問いかけるが返事はない。ただ澄んだ瞳でぽわんとこちらを見ているだけである。
 そういえばその日は花まつり、つまりお釈迦様の誕生日であった。

 読経が終わり外に出ると桜色の着物姿のきれいなお姉さんから甘茶のもてなし、ありがたくいただくとほんのり甘くてとてもおいしい。
 美しい花が飾られた花御堂(はなみどう)の中央にいらっしゃる幼いお釈迦様の像に甘茶を注いでいるとわれもわれもと子どもが寄ってくる。子どもはなぜ大人を真似るのが好きなのか。

 門前のそば屋で鴨なんばんをすすってから界隈を散歩するとあちこちに桜が咲いている。いわゆる桜の名所ではないところで「咲くときが来たので咲きました」と静かに咲いている桜は飾り気がなくスレておらず純朴な風情があって信用できる。「おみごとですね」とほめても「ああそうですか」と無関心、ただ太陽の光を受けて自分の営みをせっせと続けている。

 桜は満開に向かうときももちろんきれいだが散りぎわはもっと美しい、風に乗って一気に花びらを散らすときの潔さは壮絶で凄みすらある。
 花が散っても死ぬわけではない、きっかり1年後にはまた同じ花をつけて同じことを繰り返す桜は再生の象徴であり、希望の象徴でもある。
 桜満開の4月8日にお釈迦様が生まれたのはたぶん偶然ではないだろう、あっそういえば奇しくも今日はイースター(キリストの復活祭)でもある、それっていったいどういうことなのと少し驚いたのは、帰宅して竹の子の煮物を食べているときだった。

2012.04.10