墓地に建つ家

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 ある朝起きると、窓の外からトンテンカンテンと建築音がする。どうも、どこかで家を建てているらしい。見ると、とある土地で新築工事を行っている。基礎工事が済み、木材が組み立てられているので、じきに棟上げというところだろう。
 ああおめでたい、新年早々家を新築するなんて、施主は今ごろさぞや希望に燃えていることだろうと想像したが、次の瞬間、あっと思った。
 その家は墓場に囲まれるように建っているのである。「墓場の敷地内に家を建てている」と言っても過言ではないくらい、間近も間近もいいところなのである。なにせ敷地を隔てる薄っぺらい塀のすぐ向こうに、地続きの墓地が広がっているのだから。
 しかし、大工たちは青空の下で意気揚々とトンテンカンテンやっている。ま、自分が住むわけじゃないからね。

 一般的には、墓地は住まいの周辺環境としては悪くないと言われている。高い建物がないので日当たり、風通しは申し分ないし、騒音の心配もない。ただし春と秋のお彼岸は人がざわざわ出入りしたり、線香の香りが家の中に漂ってくるといった欠点はある。しかしそれを差し引いても、閑静な環境を好む人にはうってつけの環境といえる。
 ただしそれは「道を一本はさんだ程度の距離」がある場合のことであって、家の窓からはたきを伸ばせば墓石に届くくらい間近だと、また話が違ってくるのではないか。

 太陽が水平線の下に沈んだ後、奴らは目を覚ます。どこかでオオカミが遠吠えを上げたのをきっかけに土の中からしわがれた手が次々に伸びて・・・・・・スリ、ラーッ! それマイケルじゃん、そうじゃなくて。
「お墓の下に私はいません」という歌があった。実際、墓の下に埋まっているのは幽霊でなくカルシウムである。だから恐れる必要などまったくありませんよと人は言う。「人は死んだら無になる。だから幽霊など存在しない」と言う人もいる。
 たぶんあの家にこれから住もうとする人は、霊だの魂だのをあまり気にしないたぐいの人ではないかと思う。それはそれでもちろんいいと思う。

 しかし「あーっ、今日もいい天気ねえ」と布団や洗濯物を干す目の前に墓、「今日はがんばるぞ!」とご飯をほおばる視線の先に墓、「あの人に思い切ってメール送ってみようかなあ」と座るトイレの真裏が墓、「いやあ極楽だなあ」と湯船に顔を埋める窓のすぐ向こうに墓、「今日は家族みんなでミッキーに会えて楽しかったねえ」とウキウキ帰宅する途中にも墓。見渡す限り墓、墓、墓。陰の気に満ちた墓に囲まれて、気持ち、萎えないか。「ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲー」と鼻歌が出るうちはまだいいけども。
 元気なときならいいけれど、体調が悪いときや精神的な落ち込みが続いたとき、「墓に囲まれて暮らしているからこうなったのでは」とつい思い込みたくなるのが人間だ。
 そうなったが最後、「くしゃみが出たのは墓のせい」「夫の給料が少ないのは墓のたたり」「ダイエットが成功しないのは墓の呪い」など、何でも墓に結びつけて考えてしまう恐れがある。そうなると、住み続けるのが辛くなる。げに恐ろしきは、幽霊より「思い込み」だ。

 思い込みは生きている人間のみならず、死んだ人間にもあるだろう。
「死んだら墓場へ行くもの」と思い込んでいる人はたくさんいる。そういう人が亡くなったとき、そのまま行くところへスーッと行ければいいけれど、迷ってしまった場合はどうなるか。墓場を目指し、そこでうろうろする可能性が高くなる。
「あれ、やっぱりここじゃないような気が・・・・・・。あっ、あそこに光がある!」と走った先が、墓地に隣接する家の玄関や寝室だったらどうなるか。・・・・・・パキパキ家鳴りがしたり、電化製品がしょっちゅう壊れたり、あるいは敏感な住人なら、暗闇にまぎれる誰かの気配を感じるようになるだろう。

 お彼岸ともなれば、「イカ之助おじさんに好物のぼた餅持って行こう」と墓参りに行く人が増えると同時に、「サバ子が自分の墓を訪ねてくるからちょっくら顔出すか」と墓帰りする人も増える。墓地はあの世とこの世を結ぶランドマークだからである。
「ランドマークの近くにちょうどいい集会所できたじゃん、あそこでお茶しない?」「うんいいね、あそこ日当たりよくって居心地いいもんね」「じゃ、先月こっちに来たばかりのハモ美も誘おうか!」なんて勝手にどやどや入ってきて自宅の庭やリビングを利用された日にゃ、生きてる人間はたまらない。
 だからもしそこに暮らし続けようと思うなら、先住者の顔を立てて、多少のことには目をつぶって暮らすしかない。「ま、そういうこともあるだろう」と居直って共存するのである。
 ・・・・・・最後の切り札は引っ越しだ。そこを売るなり貸すなりして、別の家に移り住めばいい。問題は、「墓に囲まれた家に住みたい」と希望する人がはたしてすんなり見つかるかどうかである。

2013.01.13